町のプロフィール
プロフィール
太子町は、大阪府の東南部に位置し、北を羽曳野市、西を富田林市、南を河南町に接し、また東は金剛生駒紀泉国定公園となる金剛・葛城の山々を介し、奈良県の香芝市、葛城市と接した、豊かな緑と歴史につつまれたまちです。
特にまちの東にらくだの背のような美しい姿でそびえている「二上山(にじょうざん)」は、町のシンボルともいえる山です。二上山とは、北側の高い峰を雄岳(517メートル)と南側の低い峰を雌岳(474メートル)とをあわせて呼ぶ名で、かつては「ふたかみやま」とも呼ばれ、万葉集にも詠われるなど、数多くの歴史のエピソードに彩られた山として知られています。
太子町の歴史も、まさにこの二上山から始まりました。山麓から産出するサヌカイトと呼ばれる石は、数万年前の旧石器時代以降、石器の材料として広く近畿一円で利用されました。
また、時代は下り、飛鳥時代にはこの二上山の南麓に、推古天皇によって整備された大道(のちの竹内街道)が置かれました。遣隋使として知られる小野妹子はこの道を通って遠く大陸をめざし、また大陸からはるばるやって来た使者たちは逆にこの道を通って都のあった飛鳥へ向かったのでしょう。この頃、大和の飛鳥が“遠つ飛鳥"と呼ばれたのに対し、太子町周辺は“近つ飛鳥"と呼ばれ、町内には数多くの天皇・皇族クラスの古墳が築造されました。
太子町一帯が「王陵の谷」と呼ばれる由縁です。その中心となるのが、総称して梅の花びらが5枚であることになぞられて梅鉢御陵と呼ばれる、敏達・用明・推古・孝徳天皇陵と聖徳太子御廟です。
昭和31年9月30日に、当時の磯長村と山田村が合併し、聖徳太子にちなんで太子町と名付けられて、現在に至っています。
聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、十七条憲法や冠位十二階の制定や遣隋使の派遣などによる大陸外交の推進によって、多くの大陸の制度や文化を積極的に取り入れた人物として、歴史上、もっともよく知られている人物の一人です。太子町では、この聖徳太子の「和を以って貴しと為す」をモットーにまちづくりを推進しています。
町章(昭和38年10月7日制定)
聖徳太子の「和を以って貴しと為す」を町のモットーとしており、太子町ではその意をくんで「太」の字を図案化し、平和の鳩をあしらってつくられた。
町の花(昭和51年9月26日制定)
さつき
町制20周年に住民から応募を募り、決定しました。
町の木(昭和51年9月26日制定)
くすのき
町制20周年に住民から応募を募り、決定しました。
町について
ひとのうごき(2024年4月1日現在:総人口から)
人口:12,762人
男:6,258人
女:6,504人
世帯数:5,627世帯
面積
14.17平方キロメートル
位置
北緯:34度30分55秒
東経:135度39分03秒
この記事に関するお問い合わせ先
太子町政策総務部秘書政策課
電話:0721-98-5531
ファックス:0721-98-4514
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更新日:2024年04月01日