現在の位置

国指定史跡二子塚古墳

二子塚古墳の概要

推古天皇陵の東方約200メートルの傾斜地をなす段丘上に位置し、二基の方形の墳丘が西南方から東北方にわたって並列する主軸の長さ約60メートル以上の双方墳です。それぞれの墳丘に東南に開口する横穴式石室があり、いずれも石棺が納められています。

石室は長方状の箱形で、東北方のもの(東墳丘石室)は、長さ約5メートル、幅約1.80メートル、高さ約1.60メートル、西南方のもの(西墳丘石室)は長さ約5.30メートル、幅約1.50メートル、高さ約1.55メートルで、壁面に塗布された漆喰が残ります。

石棺はそれぞれ石室のほぼ中央に置かれ、身は刳拔き式で外法長さ約2.20メートル、幅約1メートル、高さ約0.70メートル、蓋は一枚石の蒲鉾形です。

本墳は、双方墳で東西墳丘にはそれぞれ雄大な石棺をもつ石室を備えており、古墳時代終末期に属する古墳として稀有なもので、学術上の価値が高いことから、昭和31年11月に国史跡に指定されました。

二子塚古墳の立体陰影図

航空レーザ測量成果による二子塚古墳の立体図

指定の概要

 指定告示

   官報告示:昭和31年11月28日付け 文化財保護委員会告示 第73号

 指定の概要

   名 称:二子塚古墳

   種別:史跡

   指定年月日 : 昭和31年11月28日

   指定基準 :1.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡

   所在地 :大阪府南河内郡太子町大字山田3385番地

   指定面積 : 1,090平方メートル (公簿)

二子塚古墳の発掘調査に至る経緯

国指定史跡二子塚古墳は、江戸時代の享和元年(西暦1801年)に刊行された『河内名所図会』にも、鳥瞰図とともに「二子塚山田村。推古陵の東にあり。二ッ双ふをもつて名によぶ。」とみえ、すでに知られていました。

大正4年には、土取りによって東墳丘石室が発見されます。この時に現地調査を行ったのは考古学者の喜田貞吉と梅原末治で、梅原の「河内國山田村二子塚調査報告」によれば、大正4年3月末にその一部が住宅の壁土とするため削られ大石が出たと所有者の田中氏へ報告があり、現地へ行くと頂上が削り取られ、その下に天井石がみえ、その下に石室があり、中に石棺を発見したと記されています。

河内名所図会(梅鉢御陵部分)

河内名所図会に見える二子塚(右下)

 

大正5年頃には、開墾により西墳丘石室が発見され、中に石棺を見つけています。その後、幾度となく開墾の危機にさらされますが、所有者の努力により守られてきました。しかし、昭和31年にはとうとう古墳が売りに出されることとなりました。そこで北野耕平ら河南高校考古学クラブがせめて古墳の記録保存をと、昭和31年4月29日から5月6日まで二子塚古墳の測量調査を行い、その成果を雑誌で発表し、この古墳が墳丘測量図などから、2基の方墳が連なる全国的にも珍しい双方墳で、小型化した横穴式石室、退化した蒲鉾形の石棺など、古墳時代終末期の姿を示す貴重な古墳であることが明らかにされました。

その後、昭和31年11月28日に二子塚古墳は国史跡に指定され、昭和32年3月に公有地化されましたが、近年、墳丘や石室の劣化が進み、適切な保存管理が急務となっていたことから、太子町では、専門家による検討委員会の指導の下、平成28年度から平成29年度にかけて発掘調査を行い、古墳の現状を確認することとなりました。その結果、露出している東墳丘石室内が床面まで良好な状態で保存されていることと、墳丘の北側と東側裾部で区画溝、北側ではその外側にテラスと地山削り出し斜面があることを確認し、古墳の規模が拡大することが判明しました。

二子塚古墳の見学について

平成29年度に各種調査結果をもとに、二子塚古墳の保存活用計画を策定しました。今後は、古墳の保存活用に向けた整備を行うための調査をすすめ、史跡整備基本計画を策定します。そのための調査を現地で行う予定をしていますので、整備を行うまでの間、二子塚古墳は安全や保護に影響のある箇所の見学はできません。ご理解頂きますようお願いします。

なお、東墳丘石室内は太子町観光ボランティア「太子・街人の会」の引率により見学して頂くことができます。ご希望の際は太子町観光ボランティア「太子・街人の会」へ依頼頂きますようお願いします。

太子町観光ボランティア「太子・街人の会」

“観光ボランティア"『太子街人(ガイド)の会』

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